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現実と非現実のはざまに漂う
原発の風景評・飯島洋一

この広川泰士の新しい写真集『STILL CRAZY』を見てまず最初に強く感じるのは、全編にわたって、時間が停止したような、あるいは「死んだような」静けさが漂っていることである。ここでは生命の躍動感、人間の息遣い、あるいは事物の発するノイズなどがほとんど払拭されてしまっている。だから画面から感じ取れるのは、何か自分とは無関係な遠い世界の出来事を、双眼鏡で眺めているような感覚ばかりなのだ。

しかし広川がこの本のために選んだ対象は、けっしてそのように人ごととして、静けさとともに眺めることのできるような代物ではない。というのも、ここで撮影されているのは、現在、日本各地にある原子力発電所の光景だからである。

対象となったのは泊発電所から巻原子力発電所、福島第二原子力発電所敦賀発電所、高浜発電所伊方発電所、玄梅原子力発電所などで、北から南までの原子炉がほとんど網羅的に撮影してある。すべての原子炉の総数は合計すると純基にも及ぶというが、その建設の工事中の写真や、完成して作動している最中の写真などが何点も収められているのだ。

こうした原発は、日本の各地に散らばっているのだが、にもかかわらずこの写真集のページを順番にめくってゆくと、不思議なことに、どのページの光景もまったく同じものに見えてくる。海岸の画一的な原発の四角い建物、あるいは円筒形の形態、それが海という自然とともに繰り返し立ち現れるが、そこには動きもなく、また人影すらない。ただ先にも言ったように、死んだような画面の静寂さだ、けが、見終わったあともどこまでも余韻として漂っているのである。

いくらめくっても、少しも先へと進まない苛立ち、最後までページをめくっても、まるで最初から一つの場所にずっと止まる続けていたかのような錯覚。それは一つの場所に釘づけにされている感党であり、ある種の既視感だが、それは単にこれらの原発が画一的なデザインであったり、あるいは立地がどこも似たような海岸線の風景だということばかりに要因があるとも思えないのだ。

それよりも、ここにおいて、どの写真を見ても既視感にあぶれ、一つの場所に問ざされたような、しかも遠い過去の出来事のようにそれらが見えてしまうありようは、実は作者がはなから意図した狙いそのものなのではないだろうか。

われわれの、生々しいまぎれもない「現実」である原発。それなのに、まるで他人ごとのように、あるいはすでに無関係な事柄ででもあるかのように、多くの人は日々をやり過ごしている。自分たちの現実であるにもかかわらず、原発の存在を日常から切り離し、忘却したまま、われわれは生きている。作者はそうした原発をわざと遠い世界の物語のように、しらじらと、そして既視感に満ちた不気味な静寂感と時間の停止した感党で演出することによって、われわれ自身の忘却そのものをあぶり出し、それこそを批評しようとしているのではあるまいか。

その意味でいって、この作品集の中でわたしが一番関心をひかれたのは、最初に登場する2枚で1組の写真であった。1枚目は、人々が家族で梅水浴を楽しんでいる風景をとらえたものである。鳥居が見えたり、パラノルやボートが置かれていたり、夏場ならどこの海岸でも見かける光景だ。ただ一つだけ違うのは、この海岸の小さな岩山の向こう側に、原子炉が顔を覗かせているということである。にもかかわらず、人々はまるでそのことに無関心であるかのように、平然と海水浴を楽しんでいる。

しかしそのページを1枚めくると、ゾッとするような仕掛けが用意されている。それは1枚目とほぼ同じ場所から定点観測のように撮影されたもので、海岸線に原子炉だけが残ったまま、梅水浴の人々一がまったく姿を消した写真となっているのだ。このいわば消滅の演出によって、われわれが否応なく知らされるのは、未来の終末の光景を先に見てしまったという不気味さであろう。 広川泰士の『STILL CRAZY』の魅力とは、たとえばそのような一瞬の時間の中に凝縮された死と終末的光景の、ひんやりとした視線そのものにあるように思われる。

 

アサヒカメラ・1994年11月号 飯島洋一 (建築評論家)