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人間の居場所(BABEL ORDINARY LANDSCAPES)平野啓一郎(小説家)

人間が、この世界と適切な関係を結ぶためには、どの程度の規模まで時空間の感覚を拡張すべきだろうか? これは本質的な問題である。

世界の大きさを最大限に見ようとするなら、地球に留まらず、宇宙そのものを想像せねばならない。最新の説では、宇宙の年齢は138億年ほどとされているらしいが、それも今後の研究次第でどうなるかはわからない。いずれにせよ、人間の実感の到底及ばぬ長さである。

その事実は、地表のせいぜい数キロ以内をウロウロしながら、100年も生きれば充分に長寿という私たちの実存感覚に深刻な影響を及ぼす。

この問題を早くから非常に重視し、私たちに思索の糧を与えてくれるのは古代のインド哲学である。

インド哲学に於ける周期的な時間は、骰子の一ふりに由来する〈ユガ〉という単位で4つに区分されるが、その4ユガの合計であるマハーユガは432万年にも及ぶ。それが宇宙の1周期であり、1000周期が梵天の半日(昼間)に相当する1カルパとなる。更にその梵天の寿命は、311兆400億年というのであるから、これは、物理的な宇宙のスケールと比べても桁違いの巨大さである。

仏教の登場の背景にあるのは、こうした時間である。私たちは、諸行無常という概念を、俗流にせいぜい、人の一生か、数代にわたる歴史を頼りに理解している。そうすると、どうして輪廻転生がそんなに恐怖であるのかはピンと来ないが、かくも途轍もない時間に曝されると、解脱という教義の必然性を考えざるを得ないのである。

物理的宇宙に話を戻そう。時間の巨大さは、とかく、人間の存在をちっぽけに見せる。

138億年という時間を通じて、未だに膨張し続けている法外な宇宙空間の中で、100年にも満たず、100キログラムにも満たない私たちの命とは一体何なのか? 長生きしようが夭折しようが、人を殺そうが、人から殺されようが、宇宙の全体から見れば、ほとんど確認も出来ないような些末な事象である。――が、私たちはしかし、その救いのないニヒリズムを裏返して、こうもまた考えられる。それほどの規模で起きている運動のただ中に、今という時を選んで、よくも自分のような存在が出現したものだ、と。

生を中心に自己を省みるならば、誕生前と死後とに無限に続く無の状態こそは例外と感ぜられる。しかし、138億年間のほぼすべてを、無として過ごしている我々は、むしろそれをこそ常態と見るべきであり、今日あるこの命は、奇跡的に生じた、一回的な例外である。それはやはり、尊ぶべき何ものかではあるまいか?

無闇に大きな話をしているだろうか? しかしそれは、『惑星の音』や『PLANE PLANTS 惑星植物 』の写真家を論じるために、欠くことの出来ない視野である。

かつての『惑星の音』で広川泰士氏がとらえたのは、人間も人工物も一切が不在の、息を呑むような地球の美だった。

一夜の、数時間の星の光でありながら、宛ら地球の自転を体感させるその光景には、私たちを日常性から解放し、宇宙の時間へと巻き込んでゆく壮大なうねりがあった。しかも逆説的に、それを記録し得たのは、まさしく人間であり、その人間の発明によるカメラという道具だった。

写真の発明者であるニエプスは、その原型的な技術を〈ヘリオグラフィ〉と呼んだが、写真家はその起源からして、そうした宇宙性に直結させられた存在だった。

だからこそ、『惑星の音』の恍惚感を厳密に反転させた本作のシャープな批評性は、一層際立つのである。

既に90年代の『Still Crazy』に於いて、広川泰士氏は、自然と人間の文明との最もやるせない矛盾を、原発の風景に見ていた。その慧眼は、言うまでもなく、3.11東日本大震災に於ける福島第一原発の事故により、今や再度、大きく見開かれている。

私たちが、自然との関係を、地球そのものとの関係と捉え直さざるを得なくなったのは、放射性廃棄物処理に必要な10万年という時間のためである。それは、私たちの生活からは決して出てこない、むしろ地球に属する時間のスケールである。

本作で広川氏は、審美的な意味では、極めてストイックなアプローチを試みている。自然の中に置かれた人工物には、言い知れぬ所在なさがあり、その整然とした幾何学性は途方に暮れて持て余されている。自然を征服しようとする近代の野心のぎらつきは、既にそれ自体が惰性的で、私たちに突きつけられているのは、索漠としたその「結果」である。

人間は、束の間この世界の一角に場所を借り、死ねばまたその場所を、次に続く者に明け渡す。それが、人間に限らず、生物一般の条件である。私たちの未来への暴力とは、前代の人間が置いていったものの何を引き継ぎ、何を廃棄するかの選択の自由を奪うことである。そして、そうした人間の世界の政治とは無関係に、自然は絶えず、その占有された場所を奪還しようとする。大地を傾け、緑を茂らせ、風雨で浸食しながら。

一体、我々は、人間に適正な世界の境界を描くことが可能なのだろうか?

もしこの写真集の中に、ただの一人でも人間が写っていたならば、寄辺のない人工物は、ページを乗り越えてでも、その一人に殺到するに違いない。しかし、広川氏は、敢えてそうせず、風景を突き放している。結果、私たちの中には、荒涼とした、ある大きな時間がひっそりと流れてゆく。

決して強い光を注がない空は、しかし時にバラ色で、また時に涼やかな青い色で、打ち守るようにして風景を照らしている。

今こそ見るべき写真集だろう。

 

平野啓一郎(小説家)