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広川泰士写真展「そのままそのまま」-コード操作による逆説の提起-評・近藤幸夫

広川泰士の作品の面白さは写真のそれではない。細かい抜術的な部分で玄人を感心させるところもあるらしいが、それよりも衝撃的とさえいえる鋭い逆説を呈示された驚きのほうが新鮮であった。写真でもパーフォーマンスでも造形芸術でもなく、しかし、そのどれよりも時代とそこに起こりつつある現象に鋭い分析のノスを入れたといっても過言ではない。

広川泰士の実験とはニコル、Y’s、コム・デ・ギャルソンなどのDCプランドの服をお百件さんや漁師さんに者てもらうという単純なシステムなのだが、そこから生まれるものは不協和音ではなかった。むしろ、私たちが半ば無意識におこなっているコード操作を連説的に呈示する結果となった。本来、最も素朴なファッションの衝動とは豪華に装飾することにあった。それが何か知的な主張を持ちはじめるのは多分、近代精神の発展とパラレルな出末事であったのだろう。が、その主張とは何かを装うこと、擬態ではなかったのだろうか。単に立派であることから、立派なものへの擬態、さらには何かをシンボライズするような物語性をもったものへと傾向は移ったのではないだろうか。中近東風であったり中国風であったりウエスタン風であったりと常に「~風」であることを拭い去ることはできない。すでに確立されたコードの体系を操作することによってファッションは成立してきたということができよう。そしてまた、最近のように今まで見過ごされ軽んじられてきたようなモティーフをあえてとりあげ、地味な素材で仕上げるということは、そのような擬態衝動と同時に、意匠性がかえって前面へ出る結果となったといえよう。つまり、素材が地味でファッション性が貧しいがゆえに、そのモティーフを処理する芋際や枝術が際立つということではないだろうか。これをデザイナーの芸術家としての自己主張の顕われと解釈することもできる。だから、現代のファッションの驚きや新鮮さが多くを逆説に負っているということを私たちは無意識のうちに前提としてしまっている。危険さや不協和音によって美しさが際立たされるのである。これこそコードの操作である。

それではその逆説をもう一度逆説にすると正論となり、ファッションはそのアイデンティティーを失うのだろうか。これが広川の実験であり、これはまた、ポストモダンのポストはモダンに戻るのかという問いかけによく似ている。答えは「ノー」であることを広川の作品は語っている。私たちは決して無垢の状態へと時間を戻ることはできないのである。

 

 月刊DREAM ・1987年 No.274 近藤幸夫 (慶應義塾大学助教授・美術評論家)