広川事務所広川事務所

sonomama sonomama撮影を終えて広川泰士 / はたきみえ(スタイリスト)

KH(はたきみえ):

この撮影は想像を絶した。ファーストカットの夫婦の時なんか、頭の中で考えていたイメージをはるかに超えて、すごく素晴らしいの。ファッションモデル以上に存在感があって、もう、着せただけで写真なのね。

TH(広川泰士):

僕も想像できなかったんですよね、そこまで。ただ単に普通の人に彼らが普通に働いているところで服を着せてみよう。着せて撮ってみようってだけがあってさ。やってみたら、ああ、こりゃすごいや。

最初の頃、はたさんが、足の大きさ、手のすごさに感激して泣きそうになった。

KH :

手足がすごい大きいわけ。なんか靴とかさ、入らないんだもん、普通のサイズが、初めてだったそういうの。それに顔とか全部が素晴らしいから、美しいと思った。みんなそれぞれに美しい年の取り方をしているって感じたの。

TH :

昔の人のバランスなんですよね。そういう人たちっていうのは、どっしり根が生えてるっていうか。土の上にちゃんと立っているって感じがするわけ。けしてコンクリートの上で育ったんじゃなくて。

KH :

感情もストレートで、見てるだけでなんかジーンて感じ。

TH :

最近、思ったんだけど、たとえば今出回っている野菜とか果物はほとんど人工的なものですよね。姿かたちは、たとえばトマトとか胡瓜なんだけども、においもないしあじもしないでしょ。いまの人たちにもそういうのが多いと思うのね。くせないけども手応えもない。人間のかたちしてるんだけど中身なんにもないんじゃないか。それが田舎へ行くと、まだ昔の人間に会えるのね。中身たっぷり詰まってくせのある

KH :

すごい頑固ものがいたりしてね。

TH :

だから、そういうふうがなごむっていうかね。忘れてたものに会えちゃったみたいな感じがすごくあったね。デザイナーの人だけが悪いわけじゃないけど、美的感覚ってあるじゃない、何頭身とかいってつくられた。野菜を作る時、胡瓜はやたらまっすぐにとかいうように、人間もそうなってきてるじゃない。それは違う。曲がりくねって、においが強烈だけどうまい。田舎に行くとそういう人間がまだいるんだなと思った。ほんとに許容量のあるデザイナーの服ってのはそういう人も着れるしね、着ても全然おかしくない。写真を見ると、その人が前から着てたみたいな気になっちゃう。完全に着こなしている。これはクレジット入れないと、まったく農村とか漁村のスナップ写真でしかないわけよ。

モノクロにこだわったってのは、服のメーカーによっては強烈ないろだったりするわけ。畑の中にそういう色の服着て立っていると確かにすごいよね。だけどモノクロにすると、それがある程度服が抑えられて、人間が浮かび上がってきてちょうどバランスが良いのではないか。むしろ人間の方がちょっと強い。モノクロの良さってのはそうなんだよね。なんか余分なものが抑えられちゃう。ほんとに撮りたいものだけが引き出せるっていうわけ。それと、あんまり新しい古いを感じないと思う。いつ見てもおもしろい。見方によっては、新しいものも古い写真に見えてしまう。時代性っていうのはないね。

KH :

今回服を着てもらった人たちは、全然ファッションなんて知らないでしょう。ファッション・デザイナーの名前なんて知らないっていう人たちばかりだったんですよ。でも、やっぱりマテリアルに凝ってるとか、着ごこちいいってのはわかるのね。

TH :

彼らはあんまり、デザインとかは気にしないのね。着れば良さがわかる。風合いとか、肌触りだとか、楽だとか。僕たちなんか、写真を撮られる時鏡で確認するでしょう。まして見ず知らずのものに突然服を着せられてさ。だけど平気ね。彼ら堂々としてるのね。鏡せてと誰も言わなかった。人の目なんか気にしてない。

KH :

いろいろ考えるとね、この撮影はめぐり逢いだったんだなと思うの。

TH :

やってくれた人ってのは、のど自慢大会の乗りだと思うのね。なんか知らないけど、おもしろそうだから参加しちゃうぞってね。だから、僕がなんかやったっていうより、そういう人たちのアクションの方が、すごいなと思う。その人の乗りで服を着ちゃったというようなね。そんな感じがするんですよね。

菱沼良樹の服を着てもらった人なんか、あの服、その年のある化粧品メーカーのキャンペーンで使われた服なのね。あれ、全然違うの、着る人によって。インパクトが全然あるんですよね、普通の人が着た方が。モデルが着てるとさらっと見えちゃう。さらっと通り過ぎちゃうってかね。服自体はすごい服だと思うし、好きなんだけど。やっぱり着る人が着るとすごいな。‥‥‥その人って、恐山ってあるでしょ。冬になると雪で閉ざされちゃって、一人だけ寺守で籠っちゃう。恐山の声をすべて聞いてるっていうすごい人が、こちらから声かける前に、「なんか用。これ着るの。いいよ。どこで撮る」って感じでさ。こっちの先入観は軽く蹴っ飛ばされた。土に根ざして生活している人ってするどい。自然のサイクルに逆らって生活しないでしょ。それが普通なんだと思うんだけどね。そういう人って、理屈とかじゃなくてすごい感覚持ってるって思う。そういう人たちと、心と心のコミュニケーションがとれた。それでああいう写真が撮れた。

自分の場所ってのがあるんだよね。そこに根ざして住んでる。その地域に根ざして、その地域に根ざして、その土地の水を飲んで、太陽の光を浴びて、そこの土で育ったものを食ってさ

KH :

生活を楽しんでる人たちだから、たまたま私たちが写真を撮らせてくださいって言ったことも、一つの遊びとしてやってくれたのね。

TH :

この写真を今回服を借りたデザイナーに見せたら、笑いころげちゃってさ、その人がはからずも言った言葉が、服ってのは二次的なもんなんだよねって。それはまったくそうなんだと思う。やっぱり人間がいて服がある。そうあるべきだと思うね。言っちゃえば。モデルというのはマネキンと同じで、服を掛けとくハンガーみたいなもので、着方の見本なんだよね。

KH :

ファッションは絶対自由であってほしいと思う。楽しいもんだっていうのが基本だと思う。それと着る人の個性。

TH :

だから着こなしまで雑誌を見ながら真似してしまうっていうのは危険なことだと思うんですよ。ファッションの世界だけじゃなくてね。考えとか生き方にまでつながると思う。自分の生き方どうしようって、なんか教科書見ながら選んで、それに当てはめていくようになっちゃうでしょう。試験問題じゃないけど1から5番までの中から正解を選んで丸をつけよって、そんな中から選べばいいっていうような、すごく安易な風潮が今あるけれども、そうでなくて、まったくなにもないものから、自分なりのものをつくっていくというか、考えていくというようなことがあってもいい。この人たちって流行なんか関係ないもんね。

KH :

自分の気に入ったものをえんえんと着るという感じね。

TH :

本来、服ってそうだと思う。なんか高いお金出してワン・シーズンしか着れないって馬鹿らしいじゃない。

KH :

それはだから他人を意識し過ぎるわけじゃない。流行とか。自分はこれが好きとははっきり判断できる人は違うんじゃない。

TH :

僕たちも含めて、鏡で確認する人たちって、自分を人と比べてどうかと気にしているんですよね。この人たちって、他人と違ってるのが当たり前だからね。自分は自分なんだっていうすごい自信がある。結局、胡瓜の曲がり方は、いろいろあってもいいんじゃないかな。